アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
ねみー、はらへったーー
ブログ紹介

たにまーく別館、というか移転してきただけ。
help RSS

激晴槍ヶ岳

2006/08/15 22:49
激晴槍ヶ岳 2006,8,12-15 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん N田 たにまーく


槍ヶ岳のテント場、2時半起床。激晴れ、それぞれ出撃。ただしN田は夢の中。3時を過ぎると、周りのテントも活動を開始。4時前、テントに戻って炊事。食事を終えてテントから出ると、すっかり空も明るくなっていて、富士山のシルエットが見えました。「たにー、おまえの山やぞ。」かばさんが言ってくれました。

テントをたたんで、山荘前で御来光を拝んだら、いよいよクライマックス。槍のピークへ向かいます。先頭を行くモカさん、過去最高級に速かったんじゃないかなぁ。でも、快晴の槍のピークが目前に迫ってるんだから、無理もないよね。離されないように、必死で後を追いかけました。

槍ヶ岳登頂。文字通りの大展望。

3年前は断念した槍ヶ岳。
2年前に3人だけで登頂した槍ヶ岳。
1年前は4人で来たけど、雨だった槍ヶ岳。

そのピークに、快晴の空の下、みんな一緒に立っていることが、嬉しくて仕方ありませんでした。

穂高連峰。餓鬼、燕、大天井、笠。薬師、鷲羽、双六。剣、白馬、鹿島槍、爺。常念、乗鞍、御嶽。そして遠くの中央や南アルプス。チーム一萬尺も6年目、ずいぶん増えた思い出のピークをひとつずつ確かめます。まぁ、その思い出の半分くらいは、あそこでバテてみんなに迷惑かけたなぁ、という類のものなんですが。そんな僕をこれだけ連れて行ってくれたチーム一萬尺には、ほんとに感謝です。末永くよろしくお願いします。

---
上高地→前穂高→奥穂高→北穂高→槍ヶ岳→槍沢下って上高地。
槍ヶ岳→上高地の鬼の22km、今回も超高速でした。
徳沢→上高地では、一萬尺記録をまた更新。お疲れ様でした。
記事へブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 3


大キレット

2006/08/14 22:46
大キレット 2006,8,12-15 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん N田 たにまーく


北穂高のテント場、例によって2時半起床。快晴。みんなそれぞれカメラを持って出撃です。ただしN田は例によって夢の中。北穂高岳は、ピークから槍ヶ岳が真北に見えて、おまけにピークからテント場が近いので、3年前に来た時から「いつかここに泊って槍と北天の写真を撮りたいなぁ」と思っていたんですが、ついにその念願が叶ったわけです。

朝食後、常念岳の上から朝日が昇るのを見ながら、テントをたたんで再びピークへ。快晴、大展望。そんなピークもほどほどに、いよいよ3年前に断念した大キレットに挑戦。下りはほとんど垂直に降りていくような感覚で、難所も多かったけど、N田もだいぶうまくなっていたし、それなりにいいタイムでクリアできたかな。ただ、このあたりは、なぜか浮き石に道標などのマーキングがしてあるから、ちょっと注意が必要でした。ちなみに途中の休憩で逆方向へ歩くおばちゃんと交わした会話。

婦:みなさん大学生かい?
T:半分学生で半分社会人です。
N:学生って言っても、ちゃんとした大学生は僕だけじゃないですか。二人は院生だし。
婦:あー、その辺はハッキリ言っておかないと、年ごまかされちゃうわ。
T:おまえ、N田、単位足りなくて留年しただけやのに、良くそんなことしゃあしゃあと言えたもんやなぁ。
婦:あははははは、私にも大学生の息子がいるから、親御さんの気持ち、良く分かるわ。

おばちゃん笑いすぎで、N田はしょぼーん。まぁ、学生8年目の僕もあんまり言えたもんじゃないんだけどねぇ。

大キレットから南岳への登りで印象的だったのが、韓国人のグループ登山。いや、前日から韓国人はいろんなところで出会っていたんだけど、あんまり大勢いるもんだから韓国語でテキトーに挨拶してみたら、しっかりと通じて嬉しかったです。他にイギリス人なんかにも会ったし、北アルプスにもいよいよ国際化の波が押し寄せて来ている、の、かな。

大キレットからの登りが終わると南岳。かばさんとN田がCCレモンをうまそうに飲んでたなー。そこから先は、中岳、大喰(おおばみ)岳と刻みます。後半ガスが沸いて、だんだんと目前に迫る槍ヶ岳を楽しむことができなかったのは心残りだけど、贅沢言ったらダメですな。

槍ヶ岳山荘には昼頃到着。去年、一昨年と合わせて、西、東、南の3ルートを制覇したことになります。テント場は残りスペース4張り分というところで、何とか確保できました。1000円の生ビール、ジョッキがプラスチックになってたのは残念だけど、贅沢言ったらダメですな。夕方はほとんど雲の中という感じでしたが、翌朝晴れることを祈って、おやすみなさい。


---
三連酷、チェックし忘れたーー
記事へブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0


吊尾根

2006/08/13 22:43
吊尾根 2006,8,12-15 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん N田 たにまーく


朝は2時半に起床。いや、起床予定時刻は3時半なんですが、2時半に起きて、みんな星の写真撮るんですね。これがチーム一萬尺。ただしN田は夢の中。この日は月明かりに輝く雪渓と吊尾根がとてもきれいでした。

5時くらいに出発。重太郎新道を2時間半ほどダラダラと登って、前穂高への分岐点、紀美子平に到着。上高地からここまでの登山道は、重太郎さんが開拓したから重太郎新道と呼ばれ、紀美子平の名前はその手伝いをした娘さんの名前に由来するんだとか。この紀美子平にザックを下ろして、いよいよ前穂高のピークに向かいます。

かばさん、モカさん、うらさんの高速隊に遅れること5分、僕とN田もピークに到着。快晴、大展望です。上高地、岳沢、吊尾根、奥穂高、北穂高、槍ヶ岳も当たり前のように見え、今回のコースが一通り見渡せたことになります。僕とモカさんは、3年前の山行と合わせて、西、奥、北、前と穂高の名のつくピークを制覇。一方うらさんは、今まで他所から見上げているだけだった穂高にようやく足を踏み入れたということで、また別の感慨があったようです。

もっとゆっくりしたかったけど、今日は先が長いので、紀美子平へ戻り、吊尾根を歩いて奥穂高へと向かいます。この吊尾根、いわゆる稜線歩きで、左に上高地右に涸沢カールを見ながら平らな道を楽しく歩くのかなー、なんて期待してたんですが、さすがに穂高はそこまで甘くはなく、多少アップダウンのある道でした。

2時間ほどで奥穂高へ到着。ここは2年ぶり3回目です。だいぶガスが沸いてきていたけど、ジャンダルムあたりは良く見えたなぁ。ピークからは、30分で穂高岳山荘。登山客で賑わいを見せる山荘の前で、日本代表13番のN田は、微妙な注目を集めておりました。さらにその先、涸沢岳を越えて北穂高のテント場を目指します。涸沢岳への登りは簡単にクリアしたものの、そこから先は、やはり難所でした。クサリ場やハシゴ連発で、不慣れなN田はちょっと苦戦気味。それでも3年前の僕に比べたら、遥かにマシっていうか、普通に歩けてたけどね。

N田が北穂高岳を目前にして、突然腹が痛くなって小休止。ガスが沸いて寒くなってきたのにTシャツ一枚で歩いてるから悪い、だの、そもそも着ているTシャツのセンスが悪い、だの、散々言われておりました。まぁ、大事に至らなくて何よりでしたが。

結局午後の3時頃テント場に到着。夕方北穂高の山頂に行ったことで、前、奥、北の3つの穂高を一日で制覇したことになります。お疲れ様。


---
散々ネタにされているN田ですが、本格登山1周年で、この日の長丁場のコースを歩き通したのは、実は結構大したもんです。2年目の僕には絶対無理だったやろうなぁ。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


前穂高岳

2006/08/12 22:42
前穂高岳 2006,8,12-15 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん N田 たにまーく


ついにパパになったかばさん、転職直後のモカさん、それなりにまじめに大学院生をやってるうらさんと僕。3泊4日で短めとはいえ、お盆の混んでる時期とはいえ、みんな揃って行けたことがとっても嬉しかった、そんな山行でした。バイトを休んでそれに加わったN田も、そろそろ一萬尺レギュラーやな。

8月12日は、朝の3時半、まだ暗いうちに集合。高速で一路松本へ。運転はかばさんと僕、うらさんは助手席で話し相手、モカさんと西田はひたすら夢の中。松本からは駐車場のある沢渡へ。すっかりお馴染みの158号線、梓川に沿って走りながら、松電バスと擦れ違い、青空と白雲の夏空を見上げ、「やっぱ夏はこうでなきゃな」と、みんなのテンションはダダ上がりです。ただし、N田のみ「この道って初めて走るんじゃないんですかーー?」…あんた乗鞍行ったやろ?白骨温泉も行ったんやろ?この記憶力がN田クオリティー。

沢渡の駐車場で着替えとパッキング。みんな、吸湿乾燥に優れた山シャツに着替えます。それを見ながら「僕も今回山シャツなんですよ、ほら。」とN田が取り出したのが、サッカー日本代表のレプリカユニフォーム、YANAGISAWA。「これ、めっちゃソッコーで乾くんですよ。」いや、そりゃあそうかもしれんけどねぇ。柳沢ねぇ。このへんのセンスもN田クオリティー?

沢渡からはタクシーで上高地。歩かなくても、急坂をぐんぐん登って標高を稼いでくれるのはありがたいことです。曇ってはいるものの雲が高く、今回歩く吊尾根や、3年前にしんどい思いをした西穂高から奥穂高の稜線がしっかりと見渡せました。

河童橋から岳沢への重太郎新道に入ると、混雑もなくなり、ようやく静かな山歩きです。でも、静かだったのは最初だけで、しばらくするとドンガラゴロゴロ、雷の音が。やがて雨がぱらつき始めたので、すばやくザックカバーと雨具を装着します。ただし、ザックカバーを持っていないN田はゴミ袋で代用。そして、みんなが雨具を装着し終わった頃、N田が「あったー!」とか言って、ようやくザックの一番奥底に雨具を発見しておりました。雨具はすぐに取り出せるとこに入れておくのが原則なのに、このパッキングもN田クオリティー。

幸い雨は1時間ほどで止んで、やがて岳沢のキャンプ場に到着。濡れて黒光りする穂高の岩肌は、ずっしりと重量感を増しています。だいぶ近くなった吊尾根の、その下の方から続く雪渓のすぐ横に慕営。味噌鍋を食べて、ビールを飲んで、ぐっすりと眠りました。


---
N田クオリティーについて書いてたら、前穂高のピークまで行けませんでした。
次の吊尾根編で頑張りましょう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


木曽駒ケ岳

2006/05/06 22:40
木曽駒ヶ岳 2006,5,5-6


モカさん まむら N田 たにまーく


ゴールデンウィーク木曽駒ケ岳登山。4月に計画が立ち上がった時は、うらさん、モカさんと、N田もたぶん、の3人で行くはずだったのかな。そこへ、就活にめどがついた僕が参戦。そしたら、出発3日くらい前に、うらさんが「一身上の都合」によりキャンセル。今までと違う山、なのにねぇ。んでもって、さらに、出発前日くらいにまむらが電話をかけてきて、「明日からヒマなんだけど、どっかハイキングでも行かない?」『いや、ってゆーか、もうすでに、みんなで雪山行く計画あるんやけど。』かくして、4年ぶりの参加となる幻のまむらを加えて、なんだか良く分からないパーティーができあがったのでした。

京都から中央道経由で駒ヶ根へ。車を駐車して駒ヶ根駅から鉄道で伊那路を北上。塩尻で東京発のモカさんと合流して今度は木曽路を南下。中央アルプスをぐるりと迂回した形で上松の敬神キャンプ場までやってきました。キャンプ場の親父に登山道の状況を聞いてから、味噌鍋を食べて就寝。

翌早朝、登山開始。背後には御嶽の巨大な山容が見えました。標高が上がって2000mくらいになったあたりから雪道に変わります。足が埋もれてしまうので、どうしてもスピードが上がらず、体力の消耗が早かったなぁ。かなり上、7合目くらいまで来たところで、まむらが膝を捻挫。斜面の雪が変な崩れ方をしたのが原因でした。

普通ならここで下山するべきなんだけど、木曽駒ヶ岳の場合はちょっと状況が違って、頂上を越えてしまえばロープウェーで下山することができるんですね。すぐに下山するべきか、もう少し頑張ってロープウェーに頼るべきか、結構難しい選択になったんですが、「下るよりも登る方が膝に負担がかからないはず」ということを考慮に入れて、上まで行ってしまうことにしました。この決断、たぶん正しかったとは思うけど、どうやろか。

結局その日は8合目付近でビバーク。雪山初体験の僕には、雪を溶かして水を作ることも、寝ると腰の冷えるテントも、実に新鮮でした。明け方、N田が珍しく一人だけ起きて、星の写真を撮っていたなぁ。

翌日も快晴。夜中に気温が下がったため、雪道が硬くしまり、歩きやすくなっています。朝日を浴びた御嶽をバックに登っていくと、やがて、槍や穂高が姿を現しました。前岳を経由して木曽駒ヶ岳登頂。南アルプスの向こうには、富士山も顔を出しています。雪が眩しい大展望の中、N田が「やばいっすねー」と連発していました。「やばい」を素晴らしいの意味で使えるN田の若さがちょっと羨まし、くもないか、別に。

大展望に感動したN田、写真にも挑戦です。「でも僕、星撮るためだけにカメラ持ってきたから、露出計動かないんすよ。」『フィルムは何が入ってるんや?』「えーと、確か感度100のが入ってます」『それならF8くらいまで絞って・・・』と、教えてもらった露出で数枚撮影。ところが入っていたのは実は感度400のフィルムで、出来上がった写真は真っ白でした。こんな露出オーバーがN田クオリティーです。

まむらを休ませて、宝剣岳を往復。急斜面が正直恐かった。行くべきじゃなかったかも。そして千畳敷からロープウェーで伊那谷へ下山しました。木曽と伊那で山を挟んだ別の世界なのに、実は両方とも長野県なんだよね。ちなみにN田は、あんなに苦労して登った標高差をたった数分で下ってしまうロープウェーに怒りを感じたらしいです。車に戻って野球ニュースを見たら、横浜投手陣が阪神矢野に3打席連続HRくらってました。僕は怒りを通り越して呆れておりました。

---
上松から登ってロープウェーで反対側に下山。
伊那名物のソースカツ丼って、なんかイマイチ好きになれない
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


バンコク、ホームシック録

2006/02/07 23:42
大学2年の冬、「ヒマラヤが見てみたい」ということになった。それで、地図帳やらガイドブックやらをいろいろ引っ張り出して調べたところ、どうやらネパールとかいう国へ行けば良いのだな、ということが分かった。

航空券を買いに旅行会社へ行った。関空からネパールまではダイレクト便もあるが、タイのバンコクを経由したほうが安くなることが分かったので、バンコクに4日だけ寄っていくことにした。航空券を受け取って出口に向かって歩き始めたら、背中から「素晴らしい旅にしてくださいね」と声がした。振り返ると、それまで事務的なことしかいわなかった担当氏が、「バンコク−カトマンドゥ線は、僕が学生の頃からバックパッカーの憧れの聖地でした。」と言って笑った。

そうは言われたものの、この旅はろくでもないことばかりで始まったんよね。関空−バンコクの便がマニラ経由しか取れなかったのがケチのつきはじめで、そのマニラの空港でトイレに入ったら、後ろからヘンなおやじが付いてきて、手を洗おうとした時に水道の蛇口をひねって、それで、チップ1000円よこせなんて言われて、いつの間にか大勢に取り囲まれた僕は怖くなって1000円払っちゃった。ほんとにバカバカしい話である。

それを何となく引きずったままバンコクに到着して、入国手続きのカウンターに並んだら、それがタイ人用のカウンターで、やたらに混んでる外国人列に並び直したりなんかして、やっとこさ入国審査が終わって、荷物のターンテーブルに着いた時には、最後まで持ち主が現れなかった僕のバックパックがポツンと一つ、停まったターンテーブルの脇に置いてあった。

とりあえずカオサンっていう安宿街へ行くバスに乗ってはみたものの、そのバスの中は旅行者ばかりで、彼らみんなが僕よりもすごく立派なヤツに思えて、なんか話しかけることもできずに、車窓から見えた真っ赤な夕日が妙に切なくて、その後にやってくる夜のことを考えるとものすごく不安になって、そんなこんなでカオサンに着いてみたら、何だかやたらに賑やかでみんな楽しそうなのに、その世界への入り口が分からなくて、蒸し暑くて食欲もないからさっさと寝ようと思ったんだけど、安宿の部屋は薄汚くて、隣の部屋で遅くまで男と女がどっかの国の言葉でヒソヒソ話をしていて眠れなくて、もう初日から史上最高で完全無欠のホームシックになってしまったのである。前年の上海の時はこんなことはなかったのに、あぁ、一人で旅をするってこういうことなのかな、なんて思ったりした。

この悪い流れは翌日になっても変わらなくて、暑いから冷たい飲み物ばかり飲んでいたら腹を壊すし、王宮に半ズボンで入ろうとしたら門番に銃向けられるし、長ズボン借りられるの知らずに帰ってきちゃって、寂しさ紛らわすためにネット屋でメールしようとしたら、やたらにフリーズしてメールは送れないわ金は取られるわ、もう、こんな所やだ!早くネパール行きたい!と思って寝たら、ネパール行きの飛行機に乗り遅れる夢を見る始末。

もうどうしようもないから、翌日、宿の残り2泊をキャンセルして、アユタヤっていう遺跡の街に逃げることにしたんだけど、これも一筋縄にいかなくて、駅へ行くのに変なバイクタクシーに捕まって、ぼったくられた上に変な旅行会社に連れて行かれて、半泣き状態で、ひたすらに"No!"を連発して何とか逃げてきた。

アユタヤへ着いてからは流れが好転し始めるんだけど、こうして改めて書いてみると、もうどうにも終わっとる、というか、形容し難い領域で、そもそも自分自身があまりに頭悪すぎて同情の余地も無くって、それでも、僕にもこんな頃があったなぁ、なんて今でこそ懐かしく思えるのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


比叡山

2006/02/05 22:36
比叡山 2006,2,5


うらさん N田 たにまーく


2006年になり就活を始めたことで、京都にいるのもあと1年とちょっとかもしれないな、という雰囲気になっていた僕とうらさん。麻雀を打ちながら、行ける間に近畿圏の山を攻めておこうか、という話になりました。で、今回のターゲットは比叡山。有名な山となれば、一緒に麻雀を打っていたミーハーN田も食いつきます。N田もこの時点では、あと1年どころか、この4月から社会人になる予定だったからねぇ。

よし、明日にでも行こうや。そう決まったのが、6半荘目の午前一時。「あのー、僕、登山靴とか取りに、一度大阪の実家に戻らないといけないんですけど。」『何、もう終電はないな。よし、明日の始発で大阪に帰って、すぐ戻ってきてくれ。』かくしてN田は、休日の朝一で大阪に戻ってとんぼ返りをするハメになったのでした。

出町柳に集合して、バスで大原へ。雪、降ってたねぇ。野村別れからハイキングコースに入って、雪の中をハイキング。県境の稜線に出ても、樹林帯の中で展望はほとんどなし。霧氷はちょくちょくあったけど。で、延暦寺に向かってるし、仏教の話なんかもしてみたんだけど、お寺さんで育ったN田が、延暦寺の宗派を知らなかったのは、今から思えば、これもN田クオリティー。

しばらく歩いて、やがて、建物のあるエリアに到着。近くにいたお坊さんに、『延暦寺はどこですか?』って聞いたら、「それはこの辺全体のことで、延暦寺っていう建物とかはないんですね」って。すみません、シロートで。

そんなこんなでお寺さんはそれなりに満喫できたんですが、僕らはチーム一萬尺。山のピークに立たずに帰るわけにもいきません。ところが、展望台やら駐車場やらガーデンミュージアムやらケーブル駅への案内はいくらでもあるのに、大比叡のピークがどこにあるのかはさっぱり分かりません。ブラブラ歩いていると、どっかのおっさんに声をかけられました。

「兄ちゃんたち、どこに下るんや?京都帰るならあっちやでー。」
『いや、実は僕たち大比叡のピークに行きたいんですよ。』
「あ、それやったらなぁ、こっちの道をしばらく登ってくとなぁ、右にカックーンって曲がるところがあってなぁ、それを曲がってチョロチョロチョロ〜って登ってくとなぁ、左手になぜか古いロッカーが置いてあって、そこを曲がっても少し行くと、何か塔が立ってるところがあるんやけど、そこまで行くと行きすぎで、その手前に左にチョロチョロチョロ〜って行く道があるから、そっちに曲がってしばらく行くと、そこに三角点があるわ。それがピークでなぁ、帰りはもっぺんここまで戻ってきて、あっちに降りていくと、ロープウェーの駅があるんやけど、それを左に見ながらチョロチョロチョロ〜って・・・(以下省略)」
『あ、そーですか、良く分かりました。ありがとうございます、どーも、おおきに。』

って、でもねぇ、実際に行ってみると、まさに言われた通りのところに、そのピークはありました。比叡山では一番高い場所のはずなんだけど、すぐ横に見えてる塔のほうが遥かに高いし、なんだかなぁ。帰りは修学院に下山。例によってチーム一萬尺の下りは、超高速だったねぇ。いつしか天気も回復して、真っ赤な夕日が差し込んでました。下山して、京都の街から比叡山を見上げて、叡電で帰って、下宿でみんなで酒を飲みました。

---
大原→水井山→延暦寺→修学院
比叡山は、僕は初めてだったけど、幽霊部員のまむらは、こっそりと単独で毎年10回くらい登っていて、ありとあらゆるコースを歩きつくしているので、興味がある人はまむらに聞いてみましょう。きっと喜びます。
この冬は、かばさんと一緒に比良山系も行きました。キーワードは、西田ドタキャン、ゲートこじ開け、先頭ローテーション、薄暮の超高速下山。
記事へかわいい ブログ気持玉 5 / トラックバック 1 / コメント 0


どうして旅をするのか

2006/01/26 23:41
どうして旅をするのか?

旅先でも、帰ってきてからも、いろんな人によくこんな質問をされます。そんな時、僕は、

『暇つぶし』

こう答えることに決めています。

旅をする理由を考え始めたのは、たぶん大学に入って、初めて一人で中国に行ったときからだと思います。それ以前は、たぶん、なーんも考えてなかった。でね、その中国に行ったときとかは、『外国を見てくることで自分自身が成長できる』とか、『この経験が後の将来できっと財産になる』とか、まぁ、それっぽいことをいろいろと考えていたわけですわ。次の年にネパールに行ったときもそうだったし、例のアジア横断旅行に出発するときなんかは、『長い旅に出たら、自分のやりたいことが見つかるかもしれない』なんて考えちゃったりしてたし。

でも、旅を続けるうちに、そんなに都合の良いモンじゃない、って分かってくるわけです。いろんな経験だって、思い出にはなるけど、あんまり役に立つとも思えない。そのうちどこかで何かの役に立ったらそれはそれで超ラッキー、くらいの気持ちでいたほうが楽でいいモンね。

逆に、旅を続けるうちに分かった旅の魅力のひとつが、「その時の自分をはっきりと記録しちゃうこと」です。
これ、どういうことかって言うと、例えば僕の場合、静岡で生まれ育って、京都でも数年生活したから、静岡や京都には、それぞれ数年分の僕がゴチャゴチャにいる。でも、例えばインドだったら、22歳の、それもほんの1ヶ月の間の僕しかいない。だから、インドのことを考えると、22歳の僕が何を考えていたのか、どんなヤツだったのか、結構はっきりと思い出せちゃったりする。なんか、そんな不思議な魅力を感じちゃうんよね。

でも、書いてみて改めて思ったけど、これは旅をする理由にしては、なんか物足りない。で、原点に戻って、どうして旅に出てきたかって言ったら、やっぱり、暇だったからなんよね。暇な時間を暇なまま過ごしてしまうと、なんかもったいないような気がする。大学の春休みって、異常に長くって、1回生の時も実家で『ヒマヒマ』言ってたら、おかんが、「切符買ってあげるからどこへでも行って来い!」って、そんな感じだったし、横断旅行だって、1年休学してとんでもない暇ができたから行ったわけだしねぇ。

まぁ、とりあえず街をブラブラしてみたら面白いことあるし、つまらなくなったら次の街行けばいいし、うん、暇の潰し方としては、なかなか悪くないなぁ。ということで、今日はおしまいです。

記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


高見山、三峰山

2006/01/26 22:34
高見山、三峰山 2006,1,26


うらさん たにまーく


2006年になり就活を始めたことで、京都にいるのもあと1年とちょっとかもしれないな、という雰囲気になっていた僕とうらさん。酒を飲みながら、行ける間に近畿圏の山を攻めておこうか、という話になりました。特に、夜は何十回と中腹まで行ったことがある三峰山と、その途中に長大なトンネルで毎回通過する高見山、馴染みの深いこの二山に興味を持って調べてみると、冬は霧氷の名所で人気も高いとのこと。んじゃ、日帰りで二つ登ってくるべ、ということで行ってまいりました。

朝4時くらいに京都発。国道166号の高見峠への旧道分岐でタイヤチェーンを巻くのにやや苦戦。小雪の旧道は、トンネルの中に氷柱がたくさんできていて、グーニーズ2の雰囲気でした。高見峠の駐車場に車を停めて、まずは高見山の山頂へ。最初は霧氷なんて全然なくて、おいおい、ってな感じでしたがちょっと標高が上がると、もう霧氷の森。ピークまでは1時間ほどであっさり到着。美しい円錐形の高見山には、「近畿のマッターホルン」とかいうあだ名があるらしいですが、マッターホルンに1時間で登頂っていうのもねぇ。

高見山の次は三峰山です。峠からの下り道が完全に凍結してて、チェーン巻いてても滑る滑る、恐かったー。それだから、現道に合流して雪がなくなっても、どーせすぐ三峰に林道に入るんだし、チェーン外さなかったんだけど、いざ林道に入ってみると、雪は全然なし。雪のない登り道をチェーンを無駄につけて走っていたら、やたら空転するし、何やら焦げ臭くなってくるし、散々でした。タイヤのゴムと三峰のアスファルトは相当すり減ったに違いないです。ごめんなさい。三峰山も周遊したから少し時間はかかったけど、登るのは簡単です。高見山に負けず劣らず寒くて、霧氷は綺麗。晴れてたらなぁ、もう少しポカポカで、青空バックに霧氷はもっと綺麗に見えるんだろうけど。

帰り道、いつも夜に走っている166号を昼間に走るのはなかなか新鮮で、とりあえず林業センターにて休憩。なんと、吊り橋の奥のほうに風呂があるとのこと。入浴料が250円くらいで温泉じゃないけど檜風呂って言うから入ってみたら、普通の湯船に檜の切れっ端を大量に浮かべてあって、意表をつかれました。檜の良い匂いはしたけどね。その後は、売店で「高見山」っていう日本酒を買って、キノコセンターでキノコを買って帰りました。キノコは実にうまかったけど、「高見山」は、酒まで檜の香りが強くて、またまた意表をつかれました。

---
地図
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


全ては上海から始まった

2006/01/14 23:40
上海という街は、アジア横断旅行のスタートになった街ですが、それより数年前に、僕が大学生になって初めて海外旅行に行ったのも、実はこの上海の街でした。そんなわけで、最初の上海旅行のことを書きたいと思います。ユーラシア大陸の玄関口上海。「全てがここから始まった」なんて言ってみても、そんなに大げさには感じられないねぇ。

というわけで、話は1999年の春にめでたく大学生になったところから。

大学に入ってみると、一人で海外旅行をしている人が結構いたりなんかして、それじゃぁ僕もやってみるかなぁ、ということになるわけです。で、1回生の夏休み。どっか行きたいなぁ、と思って、とりあえず本屋へ行って、「地球の歩き方」をテキトーに買ってきました。確か、アラスカ、モンゴル、中国の3冊。当時一番行きたかったのはモンゴルで、モンゴルの歩き方を読んでいたら、「ビザ」って何や?どうやら「ビザ」なるものが要るらしい、けど、そもそも僕、パスポート持ってないじゃん!パスポートの作成に2週間かかると言われて、はい、夏の海外旅行は断念。

次の長期休みは年が明けての春休み。大学生になって初めて迎える春休みの、あまりのヒマさに僕はびっくりしていました。ひま、ヒマ、とにかく暇。ほんとはどこか海外に行ってみたい気もするんだけど、でも、僕はこう見えても臆病で慎重派だから、やっぱりなんだかよく分からないし怖いなぁ、と。で、静岡の実家で毎日「ひまひまひまひま」言いながらうだうだしていたら、見るに見かねた母親が「もう、そんなに暇なら、どっか外国でも行っといで!」って、背中を押してくれたわけです。

さて、どこかに行くとして、どこ行こう。モンゴル、アラスカは寒すぎて無理だぞ、こりゃ。そもそも海外旅行のイメージなんかさっぱり湧いてこないし、いきなり見知らぬ国の空港に一人降ろされても困るし、あーだこーだ考えていたんだけど、大阪−上海にフェリーがあることが分かりました。フェリーで行けば、大部屋で2泊する間に、旅の達人めいた人に会えるかも知れないし、船内でビザも取れるみたいだし、何より安い(往復27,000円)。かくして、船で上海まで行ってくる、というプランが出来上がったわけです。

旅立ちの日。大きなザックを背負ったまま、ラッシュアワーの大阪を通過。うきまくりでした。船に乗ってみたら、ビールもジュースも200円。大部屋に行ってみたら、客は僕を含めて4人。勉強して覚えた丁寧な日本語と日常で覚えた関西弁をごちゃ混ぜに使う中国人のリキが一人目。池ちゃんは、ほとんど年が同じ大学生で、もう一人は津山さんという29才の人。夜に船内バーで酒を一緒に飲みながら話をすると、「19才の時に自身も初めて海外に行って、それから10年が経って、いろいろ思うことがあってちょっと旅に出たけど、今まさに19才の谷君を見ると、あの頃の自分とダブって見えるなー」とかなんとか。そんな津山さんは、僕と池ちゃんの兄貴分になっていくのでした。

上海の街を日本人3人で過ごして、慣れてきた所で一人になって上海−黄山を列車で往復。とにかく毎日全てが新鮮でした。そんなわけで僕自身の行動も、

とにかくいろんなモンに無遠慮にカメラ向けてみたり、
乗り物なんかでいちいち中国人と仲良くなろうとしてみたり、
そしてら筆談で南京大虐殺について聞かれてマジで困ったり、
食堂ではガイドブックと睨めっこしてメニュー探したり、
宿の大部屋で旅人同士が繰り広げる話が面白くて黙って聞いてるだけだったり、
いろんな人に教わりながら頑張って中国語覚えたり、
今ではめんどくさがってやらんようなこともやってるよなぁ。

そうかと思えば、
相部屋のバスルームを迷惑占領して洗濯したのにうまくいかなくて結局ランドリーに出したり、
不意にユーロピアンに英語で話しかけられてタジタジだったり、
荷物が重すぎて黄山の山道でバテて日が暮れてきたり、
一度ホテルにチェックインしてやっぱり移動したくなった時に、宿泊料返さなくていいからというのがうまく伝えられなくてものすごくもめたり、
しょーもない失敗もいっぱいです。日記を読み返してみても、この時真剣に考えてたこと、くだらないことばっかりだもん。

それでも、帰りに同じ船に乗って、同じ乗務員さんの顔を見たときには、何かホッとすると同時に、1週間を海外で過ごして、なんか成長した気になりました。で、今、こんな風に振り返ってみて、今の自分と比べてみたりなんかすると、まぁ、旅行記本編の1章でも書いたんですが、津山さんが船の中で「旅も人生も一緒で、何かを失わなくちゃ前には進めないんだよ。」って言ってたのをなんとなく思い出すわけです。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


旅の記憶 〜青春18切符時代〜

2005/12/16 23:39
中2の夏の終わり、日帰り自転車旅行に飽き始めた頃、次なるキーアイテムが登場しました。「青春18切符」です。大学生のいとこが、帰省で使った余りをくれたわけなんですね。で、例によってコヤを誘ってどっか行くかとなるんですが、当時の僕らは観光するよりも、ただ鉄道に乗っていたら満足だったわけですね。そんなわけで、静岡を朝の5時過ぎに出発する鈍行に乗ってのこの時のルート。

静岡−富士−甲府−小淵沢−小諸−高崎−上野−東京−静岡。

もう、ほんとに1日中乗りっぱなし。それでも、高原列車の小海線とか、当時の信越本線の碓氷峠とか、今まで本や写真でしか見たこと無かった所に自分の足で行けるのが面白くて仕方ありませんでした。

18切符で鉄道少年の記憶が蘇って、ものの見事にハマってしまった僕は、それ以降、学校に時刻表を持って行っては眺めて、長期休みのたびにあっちへ行ったりこっちへ行ったり。中2の冬には、やっぱりコヤと二人で、初日は静岡−新潟、2日目は新潟から大阪まで猛吹雪の日本海を延々乗り倒して名物駅弁を4つ制覇、3日目は関空を見学してから静岡に帰ったら、その翌朝が阪神大震災だった、なんてこともありました。

そんなことを繰り返すうちに、コヤがこんなことを言い始めたわけです。「一日中乗り続けるのは飽きたから、これからは気に入ったところでボーっとする。」って、中学生にしてはおよそ老けた発想だし、やっぱり観光するわけではないんですが、とにかく彼は自分の旅のスタイルを確立し始めたんですね。で、僕はどーしよっかなー、ってなるんですが、とりあえずボーっとするのはあんまり面白いとは思えなかったので、僕は僕なりに「鉄道写真」をキーワードに設定しました。

それ以降、旅のスタイルが変わりましたね。まず、出発前に、鉄道写真集なんかを見て気に入った写真を見つけると、今度は地図を開いて、それがどこなのか推理する。他にも近くに良さげな撮影地がないか地図を眺める。実際に出かけたら、まず列車の中から景色を良く眺めて、撮影地の目星をつけて、次の駅で降りてそこまで歩いていく、こんな感じでした。

そのうち写真にも傾向が出始めて、「鉄道写真」というよりは、風景がメインの「鉄道のある風景」的な写真が多くなってきたんですけど、最近になっても「月のある風景」ばっかり撮っていて、「こんなん天体写真じゃねぇよ!」って言われているのは進歩がないのかなんなのか…。

風景を重視すると、どうしてもローカル線が撮影対象になって、飯田線あたりに通うことが多かったんですが、ローカル線は本数が少なくて、乗っていた列車は写せないし、次の列車までは1時間待ちで、それを写してからその次の列車をさらに2時間待って乗ったりなんかしてヒマヒマでした。それはそれで楽しかったけど。

中学を卒業する春休みには、東北の客車普通列車が廃止とか何とかで、それを写しに遠征しました。他にも大学生くらいの同業者がたくさん来ていて、情報交換をしたり、岩手のカワヨグリーンという宿では、みんなで露天風呂に入って百武彗星と夜汽車を眺めた、なんていう思い出もあります。

盛岡では、宿で知り合った鉄道ファンと一緒に宿から駅までバスに乗ったんですが、2人してどうやら間違ったバスに乗ってしまい、途中で降りて駅までは仕方なくタクシー。で、駅に着いてタクシーから降りる時に、大学生くらいの彼が、「中学生からお金をもらうわけにはいかないよ。時間もないから早く行け。」と。この借りはいつか自分より若い旅人に返したいなぁ、と思っているんだけど、なかなかそんな機会はやってきまへんなぁ。

--
あと、コヤですが、2004年の年賀状には、「四国のお遍路巡りを歩いてやった」なんて書いてありました。僕は最近海外メインですが、彼も彼らしく旅人をやってるみたいです。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


旅の記憶 〜銀チャリ時代〜

2005/10/03 23:37
さてさて、小学生の頃は、首にカメラをぶら下げて鉄道少年をやっていた他は、公園で野球をして、近所の畑に虫捕りに出かけて、あとはファミコンをやったりと、それなりに普通の遊び方をしていたわけですが、中学生になったところで、また新たなる旅の世界が開けてきます。

そのキーワードが「自転車」と同級生の「コヤ」です。

小学生の頃は、自転車で学区外を走るのが禁止されていて、なんとなく僕はそれを守っていたんですね。で、中学生になってみて、そんな規則もなくなって、とりあえず自転車で遠くへ行ってみようということになる。ほんでもって、同級生のコヤ(ひまじん、放浪癖あり)となんとなく走っていったら、隣の清水市に着いてしまったわけです。まぁ、静岡から清水まではせいぜい10キロ強しかないわけなんですが、それまで僕の中では自転車というものは町内を走るもの、つまり、歩いても行ける所に早く着くための乗り物という位置付けだったわけで、とにかくびっくりしたわけですね。

で、清水まで行けたら、当然、次はもっと遠いところまで行こう、ということになります。富士山を見に富士まで往復したり、西側の大井川方面へ行って見たり、地元の安倍川をひたすら北上してみたら、行きはしんどかったけど帰りは下りでびっくりするほど楽だった、なんてこともありました。いつもたいていコヤと一緒。自転車は二人ともいわゆる銀チャリ。一日中走り続けるのはしんどいので、途中で鉄道駅がある度に立ち寄ってみたり、親父が車で連れてきてくれた所を探したり、そんな感じのまったりサイクリングです。

そうしてある日、「朝の6時に静岡を出発して12時までは東へ行けるだけ行ってそこで折り返して帰って来よう」、という企画を決行しました。途中の富士も、初めて行ったときは5時間くらいかけて行ったのに、その時見つけた近道を活用したりなんかして、この日は9時に早々と通過。そのまま駿河湾に沿って走っていって、60キロ先の沼津まで来たときは、なんかすごい達成感がありました。その先の柿田川という静岡名水100選かなんかの水を飲んで折り返して、帰ってきてみたら予定通りというか、計算通りというか、ちょうど夕方の6時の秋の夕暮れだったかなぁ。

結局、それ以上先へ行こうとすると、「夜を中坊だけでどないして明かすねん」という壁もあって、だんだんサイクリングは下火になっていくわけなんですが、地図を開いて道を調べて、自分の力でペダルを漕いで、しかも行き先が毎回少しずつ遠くなっていくと、何だか自分の世界がちょっとずつ広がっていくような気がして、それが楽しくてしょうがなかったんだと思います。

--
静岡ネタなんで、地名がよく分からんって人はこちらをどうぞ。ただのYahoo! Mapですが。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


旅の記憶 〜幼少時代〜

2005/10/02 23:35
そんなわけで、幼少時代から鉄道が好きだった僕ですが、小学校低学年の頃に、親父と2人で、岡山県は倉敷にある親戚の家に行くことになりました。

で、まぁ普通に考えたら、静岡から新倉敷まで新幹線ですわ。ところが、この時に物好きな親父が考えたプランがまたすごかった。

静岡からとりあえず新幹線に乗るんだけど、なぜか豊橋で下車。

ここで名鉄の「パノラマ特急」の一番前に乗り込んで、展望を満喫しながら新名古屋へ。

名古屋からは、当時話題をかっさらっていた二階建て新幹線(100系)に乗り換えて、二階のビッフェでカレーの昼食。

カレーを急いで食べたら京都で下車して、山陰本線の特急「あさしお」と「雷鳥」の写真を撮ってから、新快速で大阪へ。この時僕は、特急料金がいらないのに特急みたいな新快速に大いに感激したのでした。

さらにさらに、何故か環状線で天王寺へ行き、特急「くろしお」の写真を撮ってまた大阪へ。

で、姫路、岡山と乗り継いで、特急「やくも」の写真を撮って、やっとこさ倉敷にたどり着いたわけですが、僕がずっと持っていたお土産の「うなぎパイ」は、親戚の家で開けてみたらバラバラの粉々になっていたのでした。

うーむ、今振り返ってもこれはすごいな。ってか、未だにこれだけしっかり覚えているんだから、よっぽど楽しかったんだろうと思います。前回書いた時刻表遊びの夢をほんの少し叶えてもらった幼少時代の思い出のお話でした。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


旅との出会い

2005/10/01 23:31
そもそも、僕自身が旅の世界に出会ったのはいつだったのかって考えてみると、おそらく幼稚園の頃だったと思います。

その頃から僕は鉄道が好きだったんだけど、そうしたら親父がね、「時刻表」なるものを買ってきたんですよ。それで、丁寧に使い方まで教えてくれちゃうの。「じこく」って聞いたら、頭の中で「地獄」を思い浮かべちゃうような幼稚園児に、あの、大きくて分厚い時刻表ですわ。

これがハマりましたね。その日から、僕のオモチャは時刻表。最初のうちは、図鑑でしか見たことがない大好きな列車を見に行く計画とか立てていて、そのうちに、いつの間にか日本一周プランを立て始めたりなんかして。紙と鉛筆持ってきて、とりあえず静岡を出発して、好きな列車を乗り継いで、ガンガン進んでいくわけですわ。特急も乗り放題。観光時間、一切ナシ。始発から終電まで乗りっぱなし。たまに乗り継ぎの間に余裕を作ったとしても、それは他の列車の写真を撮る時間。宿は原則寝台列車、なんだけど、どうしても無理だったらホテルに泊まる設定。そんなわけで、どっかの駅で夜をむかえることになると、台所にいた母親のところに行って、「ねぇ、ママ、宮崎の駅の前っていいホテルある?」とか聞いてたような記憶が、あったり、なかったり。

あの頃作った日本一周プランの紙も、今はもう残っちゃいないんだろうけど、もし実行したら一体いくらかかるんかいな?お金のことは考えてなかったもんねぇ。でもまぁ、幼稚園児の時点でこんなんだったんだから、大学生になった僕があっちこっち行ってても不思議ではないですな。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


剱岳

2005/09/19 22:32
剱岳 2005,9,17-19


かばさん モカさん うらさん N田 たにまーく


やってきました、秋の麻雀山行です。今年は、北アルプスの剣(ほんまは剱)、立山。アルペンルートがあるおかげで、ほとんど歩かなくていいんだよね。超お気楽登山です。

05年9月16日、うらさんと二人で京都を出発。かばさんは豊田発だし、モカさんは東京からの夜行バス、N田はなぜか東北旅行に出かけてて、富山で合流したのでした。結局その日はケーブル立山駅の近くに車を停めて車中泊。エスティマのシートを倒して3人で寝たら、やっぱり完全には平らにならないし、狭いし、でも、しょうがないよね、テントかばさんが持ってるんだから。ところが、N田だけは、「すげー、こんな柔らかくて寝心地いい場所久しぶりですよー。」って、おまえ旅行中いったいどんなとこで寝てたんやって聞くと、「ホテルの駐車場でこっそり寝たり、公園のベンチでも寝ました。」って。へー、頑張ったんやねぇ。
画像
翌朝、かばさんと合流して、室堂へ。室堂でモカさんとも合流。さて、みんな揃ったし、歩くべ。とりあえず、白い煙がモクモクと上がる地獄谷を通って1時間弱で雷鳥沢へ。はい、今日はここまでです。さすが、お気楽山行。その日は、立山連峰に囲まれた大自然の中に、ジャラジャラジャンジャラ、麻雀牌の音が響き渡ったのでした。そして夜には、鍋を食べながら、京都で買ってきた立山の一升瓶を空けました。立山でテント張って立山を飲む。すばらしいですな。

18日は、起きてみるとなかなか良い天気。少しは山に登ろうか、ということで剣岳へ。04年に五竜岳から見たときも、剣岳はひときわかっこ良く見えたし、あと剣岳といえば、この剣岳に由来する「つるぎ」っていう名前のブルートレインがあって、なかなかカッコいいヘッドマークをつけて一昔前まで大阪−新潟を走っていたので、鉄道少年だった僕にとっては、是非とも登っておきたい山だったんですね。 雷鳥沢から急坂を1時間半くらい登って稜線の剣御前小屋までくると、朝日を浴びた剣連峰が大変かっこよく見えました。で、そこからしばらく頑張って前剣。すでに登ったことがある五竜や白馬も見えたけど、晴れたのはここまでだったなぁ。前剣から先は結構な難所続きで、渋滞になっておりました。なんかねぇ、いかにも経験不足っぽい中年の方とかが難所を歩いてるのは、見てるだけでも結構怖いんだよねぇ。僕らも、自分のレベルにあった登山を心がけたいものだと思います。

そんなこんなで、2998mもとい2999mのピークに到着。実は、このいかにも際どい剣岳の標高にはちょっとした歴史がありまして、1907年の初測量で2998mとされた後、1930年に3003mと改定され、1968年の写真測量で再び2998mにされたんだとか。で、なんとか3000m峰の仲間入りをさせてあげたい人たちが、最新技術を使っての再測量結果に期待してたんだけど、2004年のGPS測量で、2998mより高い2999mというさらに際どい結果が出たんだと。そのときのニュースに、”富山県山岳連盟会長は「もう少しだったのに。3000mの夢が壊れて残念だが、剣岳の魅力は変わらない」と話している。”とかって書いてあったけど、なんか、ものすごい悔しさ滲み出てるよね。

帰りも渋滞に巻き込まれて、テントに帰ってきたのは夕方。かばさんは所用によりそのまま下山。残った4人はひたすら麻雀。この日はうらさんが四暗刻を上がりました。

翌朝、起きたら雨。というわけで、予定されていた立山登山は中止。となれば麻雀しかすることはなくって、ひたすら打ち続けました。4半荘くらい終わって、勝ち組が僕とうらさん、負け組みがモカさんとN田ってきれいに分かれたところで、N田の名言「なるほどー、麻雀はダメ人間ほど強いんですねー」。確かに、モカさんは社会人でちゃんと働いてるし、N田もこの時点では06年から社会人になるはずだったのに対し、うらさんは休学明け、僕は06年に休学する気満々。結構説得力があるなぁ、なんて言いながら始めた次の半荘、うらさんがまたまた四暗刻でダメ押し。こうしてうらさんは、「King of ダメ人間」の称号を手に入れたのでした。

---
地図
立山もいつか登りに行かないとダメですな
山に麻雀を打ちに行ったら、04年の穂高に続いて、05年も相川のサヨナラタイムリーで横浜が巨人を3タテしました。
ちなみにN田は巨人ファン
特急つるぎ--出典元:日本の旅・鉄道見聞録 http://www.uraken.net/rail/
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


笠ヶ岳

2005/09/04 22:27
笠ヶ岳 2005,8,6-12 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん たにまーく


画像
双六小屋で目が覚めると、昨夜の満天の星空そのまんまの快晴。せっかくなので、先に双六岳に寄り道してから、今回の縦走の最終目的地の笠ヶ岳に向かいました。まぁ、特に何事もなく、山頂直下の笠ヶ岳小屋に到着。空が曇ってあまり展望がなかったので、山頂には翌日に行くことにして、その日はくだらないことを話しながらビールを飲んでさっさと眠りました。



ZZZZ....zzzz....ZZZZ....zzzz....ZZZZ


「たにさん、起きて。」

夜中、気持ちよく眠っていたのに、突然うらさんに起こされました。で、起きてみると、しとしとぴちゃぴちゃ、雨がかなり降っています。まぁ、それだけなら良かったのですが、ちょろちょろチョロチョロ、テントの中に川ができていて、足のほうなんか完全に水たまりになっているじゃありませんか!有り得ん!!

かばさんとモカさんも叩き起こします。起こされたかばさんの第一声、「誰やー、昼間に…(以下自粛)。」まぁ、そんなことはどーでも良くて、とりあえず4人で応急処置。とはいっても、すでに濡れた荷物を濡れないように移動させたりしただけですが。それでも、テントの右半分で寝ていたかばさんとモカさんの所は、被害は少なかったみたいで、2人はしばらくするとまた寝てしまいました。でも、僕とうらさんのところは、ウォーターベッド状態だったねぇ。うらさんなんて、シュラフカバー持ってないから、もう悲惨。結局2人ともロクに横になることができずに、座ったまま、眠っているのか、よく分からないまま朝が来るのを待っていたのでした。

空が少し白み始めたら、予定よりもだいぶ早かったけど、かばさんとモカさんを起こしてその日の行動を開始しました。とりあえず荷物整理。水没した僕の携帯は電源入らず。うらさんのシュラフ、水をたっぷり吸い上げて、普段の5倍くらいの重さになっておりました。パッキングしてみても、荷物は5日間で一番軽くなっているはずなのに、みんな初日とほとんど変わらない重さ。ほんと、最終日で良かったよなぁ。

そこからは、もうヤケクソで笠ヶ岳に登頂して、ヤケクソの超高速で下山。ほんまに速かったねぇ。まぁ、何にせよ、無事に下りてこられて良かった良かった。それから温泉に入って生き返ったら、高山市に抜けて、焼肉「ろくべえ」で豪遊。飛騨牛の焼肉、とにかくうまかった。今まで食べた焼肉で一番うまかったかもしれん。で、特急「ひだ」に乗って、僕は車内でも日本酒を買って、飲んだくれながら帰ってきたのでした。


---
双六岳→抜戸岳→笠ヶ岳→新穂高温泉
大町→高山
なんかねぇ、携帯、タダで新しいのと代えてもらえました。ラッキー。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


雨の槍ヶ岳

2005/09/03 22:23
雨の槍ヶ岳 2005,8,6-12 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん たにまーく


山行4日目。朝起きたら、雨ざんざん。なるほど、昨日の雷はこれの前触れだったのね。今日はメインの槍ヶ岳だし、コースタイムもとても長いし、かばさんの「今日は停滞」の一言を内心ちょっとだけ期待した僕がいましたが、まぁ、予定通りに槍ヶ岳へ。
東鎌尾根。雨、雨、とにかく雨。ヒュッテ大槍に着いたときなんて凄かったなぁ。そこから先も雨、雨、雨。他のパーティーはほとんど停滞のようで、擦れ違ったりすることも少なかったです。槍ヶ岳山荘に着いたら風まで凄い。ちょう稜線が少し低くなっているところがあって、そこがまさに「風のとおり道」でした。でも、トトロの「風のとおり道」みたいなやさしさは少しも感じられませんでした。
画像
山荘に荷物を置いて槍ヶ岳へ。モカさんだけが初登頂なので、先頭を行ってもらいました。まぁ、めでたく登頂できたわけですが、去年は3時間もいた山頂も、何も見えないし、寒いから、写真だけ撮って5分で帰ってきました。この日までの一年間、「モカさんと槍ヶ岳に登頂する」ことを考えてきましたが、これからは、「モカさんと快晴の槍ヶ岳に登頂する」ことを目標にしたいと思います。

再び槍ヶ岳山荘に戻って、そこから先は去年歩いた西鎌尾根を逆流。ようやく雨も小降りになってきて、双六小屋に着く頃には太陽も顔を出し始めました。みんなでずぶ濡れになった服なんかを乾かしましたが、かばさんは、靴の中の水分を吸い取った靴下を履いたまま外で乾かして、それでまた靴を履いて水分を吸い取って、と繰り返して靴を乾かす荒ワザをやっておりました。この日、双六小屋で作ったカレーはかばさん曰く「過去最高」とのこと。これからはコンスタントにこの味を出せるように頑張ってまいります。

陽が暮れたら快晴になったので、モカさんを追いかけて星の写真を撮りに樅沢岳へ。満天の星空の下で、何話したっけなぁ。「山はしんどいし、登る前日は憂鬱だし、初日は決まってバテて、そのたびに『もう2度と来るか!』とは思うんだけど、やっぱり一萬尺はいいなぁ。」とか要約すればそんなこと。でも、登る前日に憂鬱になっているのは僕だけのようです。

---
大天井→槍ヶ岳→樅沢岳
槍ヶ岳の寒さとは対照的に下界はとっても暑かったようで、この日槍ヶ岳山荘のテレビで見た字幕ニュース、「大阪では最高気温が35℃を超える酷暑日が3日続き、三連酷となりました。なお、三連酷とは麻雀の役ではありません。」って、字幕ニュースの中の人も暑さにやられて頭がおかしくなったみたいです。
記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


表銀座

2005/09/02 22:21
表銀座 2005,8,6-12 北アルプス縦走


かばさん モカさん うらさん たにまーく


「表銀座」というのは、北アルプスの燕岳(つばくろだけ)から大天井(おてんしょう)、西岳を通って、槍ヶ岳へとつながっていく稜線の登山道を指すようです。人気があって登山客が多いから「銀座」なんだとか。人気がある場所になんでもかんでも安直に「銀座」という名前をつけるのもいかがなものかとは思いますが、そう言えば静岡駅の近くにも、ものの見事に寂れきった「駅南銀座」なるものが存在したような。はい、どーでもいーですね。

チーム一萬尺がテントを張った餓鬼岳は、燕岳のさらに北で、山行2日目はここから東沢を越えて燕岳を目指します。この東沢乗越が深くてしんどかったけど、登りきって燕岳に到着したら、槍ヶ岳もずいぶん近くなったのが実感できました。

燕岳で一泊。朝食は新メニューのマカロニスープ。ちょっと水が少なかったかな。一人あたり400mlくらいの水が目安かも。天気は快晴で、朝日に染まる槍ヶ岳は、それは見事なものでした。山行が始まっても、晴れた日の稜線歩きってほんとに楽しいんですよね。僕もようやく山歩きに順応してバテなくなってきてたし、左右の大展望を見ながらずんずん歩いていく感じ。だからこの日は皆さんとっても上機嫌。

大天井に登頂すると、今まで見えなかった涸沢カールのあたりも見えてきました。かばさんも、何回も大天井に来ているくせに、ここで晴れたのは初めてだそうで、実にめでたいから大休止。ほんと、最高でした。

ちょうどこの頃、チーム一萬尺で流行っていた新田次郎の「孤高の人」という小説が、昭和初期のこのあたりを舞台にした登山小説だったんですね。昭和初期だったら、装備だっていろいろ重いだろうし、登山道もしっかり整備されてはいないんだろうけど、登山客も少なくて静かなんだろうなぁ、と思いました。でも、主人公の加藤は、干し小魚と甘納豆だけで何日も山に入るって、どうなんやろか。今度実験してみましょうか。食料長的には楽なんだけどなぁ。

大天井からは、またしばらく歩いて西岳山荘でテント泊。照りつける夏の太陽が異常に暑くて、ビールがとっても美味でした。でも、陽が沈んでから星の写真を撮ったら、穂高と一緒に写ったのは星じゃなくて稲妻でした。
画像

---
餓鬼岳→燕岳→大天井
大天井から見た槍穂高です。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


餓鬼岳

2005/09/01 22:17
餓鬼岳 2005,8,6-12 北アルプス縦走

かばさん モカさん うらさん たにまーく


2005年も8月になって、いよいよやってまいりました、チーム一萬尺のメインイベント、夏の北アルプス縦走。一昨年が山中3泊、去年が4泊だったら、今年は当然5泊です。ってことは来年は6泊か?

チーム一萬尺創世メンバー+うらさん、というか、チーム一萬尺最強トリオ+たにまーくの4人パーティー。松本駅で集合して、食料の買い出しを済ませたら、大糸線で信濃大町へ。ローカル線のボックスシートに4人で腰掛けて、安曇野の風景を見ながら、何を話したっけ?かばさんが山を下りてからどこかの駅で徹夜マージャンをした話とか、おかさんがこの夏に丹沢に登った話とか、およそ1時間で信濃大町に到着。温泉行って、飯食って、荷物を分配して、さっさと眠りました。

最初に登る餓鬼岳という山は、何だかすごい名前ですが、その名前の由来には二つの説があるようで、ひとつ目は、崖ばっかりあるから崖岳と呼ばれていたのが訛った、というもの、二つ目は、標高が2647mしかなくて、他の山から見るとガキのように下のほうに見えるから、というもので、なんだかどっちもどっちやなぁ、という感じです。北アルプスの中枢部からちょっと遠くて、100名山からも外れているために登山客も比較的少なく、かばさんも未だに登ったことがないので、是非行っておこう、ということになったわけであります。

翌朝、珍しくしっかりと眠れたはずなのに、まだまだ眠い。朝飯食ってもまだ眠い。タクシーが登山口に着いてもまだ眠い。歩きはじめてもまだまだ眠い。で、すぐにバテて、そこから先はスローペースでトロトロトロトロ。いい加減にイライラしてきたかばさんが、「たにー、荷物下ろして中身出せー!」で、3人が僕の荷物を少しづつ持ってくれました。すまへん。ごめんなさい。この分は毎日の炊事で働いて返させていただきます。画像

小雨がぱらつき始めたところで、餓鬼岳山荘に到着。すぐにテントを張りました。荷物持ってもらわなかったらみんな濡れてたかもなぁ。しばらくすると雨もあがって、とりあえず餓鬼岳の山頂へ。人がほとんどいない静かなピークからは、雲の向こうにうっすらと槍ヶ岳が見えました。さらに、翌朝も再び登頂してサンライズを見たんだけど、これは素晴らしかったですね。槍から剣や鹿島槍までしっかりと見えて、静かな餓鬼岳には100名山に負けない魅力がたくさんでした。

---
信濃大町→餓鬼岳
次は表銀座だよ。

記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 0 / コメント 0


間ノ岳

2005/08/31 22:10
間ノ岳 2005,7,29-31

かばさん うらさん N田 たにまーく


北岳山荘を出発した一行は、稜線を歩いて間ノ岳に向かいました。天気がどうやら下り坂で、間ノ岳に着いたときには、霧と風で雨具を着ないと寒いくらいでした。

この間ノ岳は、静岡県の北端にあたるピークで、3189mの標高も日本第4位という名峰です。小学生の頃、社会の時間の暇な時とか、『静岡の一番北の方には何があるのかなぁ?』とか、『川の源流はどこにあるんだろう?』なんて思いながら地図帳を眺めていると、この間ノ岳という山が目に飛び込んできて、どんな場所なのかいろいろ思いをめぐらせたものです。そんな静岡県の北端についに立ったことはやはりめでたくて、とりあえず僕は3人に、そこが静岡市葵区で、つまり静岡市は政令指定都市になったということを改めて自慢しておきました。

この先、予定の縦走路は農鳥岳方面に伸びているのですが、ちょっとばかし西に寄り道をすることにして、三峰岳(みぶだけ)へ。このピーク、名前に「三」の字がある通り、静岡、山梨、長野の3県境で、それは同時に大井川水系、富士川水系、天竜川水系の分水嶺になっていることも意味しているわけです。ここから3つの県と3つの源流を順に眺めるようなことができたらよかったんだけど、残念ながら霧で展望がなかったので、とりあえず山頂のケルンの周りを1周して、一瞬で3県をまわるという悦にひたっておきました。

霧の中を間ノ岳まで戻り、農鳥岳方面に向かって南下。このあたりから天気が回復してきて、3年前に行った赤石岳、悪沢岳なんかが見えてきました。もう少し早くに晴れてくれたら三峰岳からの展望が楽しめたのになぁ。

農鳥小屋に到着してびっくりしたのは、北岳山荘の超バイオトイレは対照的な、チベットに勝るとも劣らない超ワイルドトイレと、「普通の体力の人なら、10時にここを出発すれば奈良田まで下山できます。」の看板、そして、なんだかちょっと変わった山小屋のおじさん。当初の予定では、この日はここで泊まる予定でしたが、北岳山荘で書いた天気図を見ても、明日は雨が降りそうだし、ここのおじさんも早めに下山したほうが良いと教えてくれたので、さらに先に進むことにしました。

そんなこんなで、どこにあったのか分からなかった西農鳥岳をいつのまにか過ぎて、農鳥岳に登頂。北岳、間ノ岳とあわせて、これで白峰三山を制覇したことになります。予想に反して天気がゆっくりゆっくり回復してきて、その二峰を眺めることができました。
画像

農鳥岳からの少し先へ進むと、稜線と別れてひたすら下るだけになります。その分岐点で、N田が、「なんか寂しいっすね。稜線と別れるときに寂しさ感じるようになったら、僕も一人前ですかね。」と、ちょっとシャレたことを言っておりました。

夕方前に大門沢の小屋に到着。ビール飲んで、カレー食べて、さっさと眠りました。夜中に目が覚めると、雷が遠くで時折光るものの満天の星空。朝起きると、予報に反して見事な快晴。ちょっともったいなかったかなぁ。でも、おかげさまで大門沢から奈良田への下りに余裕ができて、森林浴や吊り橋を存分に楽しむことができたし、昼前には山には不穏な雲が大量に湧いてきていたので、やっぱり早めに下山して正解だったんだろうと思います。

---
奈良田からは富士川に沿って車で南下して、東名で大井川と天竜川を渡って帰りました。
アルプスの清流を水源にして、最後はあんなに大きな川に。
静岡が誇る一級河川たちやね。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク

ねみー、はらへったーー/BIGLOBEウェブリブログ
[ ]